47 唯一の3ヶ年持ち上がり

 近所迷惑 正月3日に家へ遊びに来てもよいといと言っておいた処、男女各7?8人がやって来た。女子は雑誌の付録で、我が家でも好評だった帽子取りゲームなどで遊んでくれたが、男子は2階の窓と玄関外とに別れてかんしゃく玉の投げ合いとなり、バンバンと破裂音のやかましいこと。近所迷惑だったと思う。2度と同じことはしなかった。

 *畑作物の肥料はまだ屎尿(しにょう)の時代。腹中に寄生虫がおるのは珍しくなかった。この時、大きい方は26cmもあったので、その後は回虫に養分を横取りされることがなくなって、肥えられるだろうと期待したがガリガリの状態は続いた。

 国語科に注力 前々項の最初に書いたことには失敗したが、国語科、特に漢字の指導には力を注いだ。全般に余りにも弱かったからである。書取テストを度々して時には結果を公表して発奮させたりした。日記帳でも欠かさず添削以上のことをした。学力が最低に近い女子が日記帳で、一旦、一生懸命と書いたのを一所懸命と書き直していたのは嬉しかった。 “精励印“を押してやったことはもちろんである。

 恐怖の人工気胸術 さて、毎週土曜日の午後に校医宅へ赴くことになったが、驚いたことが2つある。元軍医のせいかすることが荒っぽい。注射器は皿にも入れずに無造作に、医師の目の前の机上に裸で3本転がっており、その横の籠の中ではリスが1匹、クルクルと車を回し続けて、餌が少々注射器の辺りまで飛び散っている。その注射器の1本をひょいとつまみ上げて、アルコール綿で針先をひとなでするだけで、まず麻酔を施す? 続けて別の太い注射器様のものを肋骨の間から射し込んで胸膜腔に空気を注入するのだが?100kgはあろうかという巨体がのしかかってきてぷつりとやられる。その瞬間、素人考えで、もし少しでも行き過ぎたらどうなるのだろうかと生きた心地がしなかった。毎週土曜日が苦痛だった。

 校務分掌 この年はまだ教務ではなく、マイク係にされてしまった。強電をちょっぴり専攻したものの?弱電はごく簡単なラジオの知識しかないので弱ったなと思ったが、幸い生徒に優秀なのが2人いて、おおいに助けられた。

*PTA Parent-Teacher Association「親と教師の会」の頭文字をとった呼称。第2次世界大戦後にGHQの提案で半強制的に導入された。初めは学校への経済的支援が主目的になっていた。設立当時は戦後の貧しい予算、現在も諸外国より低い教育予算を補うために、金銭的または人的支援を行ってきた。しかし、私費会計であるPTA会費を学校運営に流用することは、法令で保障された「教育の機会均等と義務教育費負担の原則」を害するとして、一昨年5月に文部科学省が実態調査に乗り出したということである。               

 ずらり賞状 当時、大会はしても賞状は出さなかったかも知れない。そこの処ははっきりしないのだが入賞する度に私は手製の賞状を作った? 画用紙を横半分に切って、1位は赤?2位は青、3位は黄色の枠で囲み、中には項目名だけを大きく書き、その色を基調にした賑やかなものにした。これを天井に近い欄間のような場所に横1列に並べて行った?生徒たちはそれを誇りにし、その3年前に始まった赤い羽根の共同募金にまで、赤い賞状を貼るべく競って募金したほどだ。耳の悪いひとのための募金代わりに鉛筆を買った本数も並はずれて校内1位だった。まだ何かあったと思うが思い出せない。特別に学力の低い生徒が数人いたために、国語科以外の平均点は最後まで他学級より低かったが、皆最後の方ではよく頑張ってくれたと思う。

         最活躍した1年生  

 有用だった実用数学 新制中学校の数学科は社会科的な内容を軸にすることとなって、時には数学を全く扱わないことがあってもよいとのことで数学科を敬遠したことは先に述べた。しかし、この年に数学科をもったことは、私にとって常識を広めてもらうこととなりよかった。国鉄(現JR)の切符はループ状に出発点に戻ってくれば、遠距離逓減制だから、往復として買うよりもずっと安くなること等、あの時に学べてよかったと思ったことである。ある立派な理系の営業人がこのことを知らないことに最近気づいた経験から痛感する。純理系にはこのような科目はないのだ。銀行と郵便局の利息と利子の付け方の相違点など、“実用数学”の領域のことは、生涯この年1回だけの学習経験となったのだった。栄養のグラフを作らせたことは、今回調べるまではすっかり忘れていた。数学的には、この頃は文字式の指導は2年からであり、幾何は最後までなかった。

 家庭環境  翌年編成替えになって卒業まで持上がる組と比べると、大分良かった。片親は3人だけ(翌年は10人?学級人員が10人増えているが)。貧困な家庭の子が殆ど成績優秀であったことや、入学寄付金も大口が2人あったために学年トップであった。とは言え、15円の入学記念写真を買わない子が14名もいたし、学級新聞発行を提案した時、1学期の学級委員長は、紙代がもったいないから壁新聞にしようと修正意見を出し、1度はそうしたことがあった。彼は新聞配達をしていた。日記で知ったことだが、英語科の、後には校長にもなる教員は、ウィークリーを購読させ、不満が多く、その費用調達のために状袋貼りを始める女子もいた。彼はこの生徒らが3年になると,校下で塾を開き、前記の理由で英語の弱い生徒たちは大勢入ったようだが、経済的に入れない生徒を嘆かせた。『41 発足時のあれこれ』で記した教え子の同窓会費を大方酒に代えてしまう3人衆の1人であった。教科書購入が4月20日頃に重なり、その支払を嘆く日記もあった。一方、1学期に副委員長に当選した活発でよくできた女子は両親とも小学校の教員で,母親はPTA*副会長を務め,校歌制定の時には彼女の作品が入選した才能を受け継ぎ、最も環境に恵まれていたと言える。快活で明るく、級友からの人望絶大な少女だった。学級のために積極的な提案をよくし、実行してくれたし、後に学級新聞を発行した時は自ら作品も提出し、ガリ版切りもよく頑張ってくれたのだった。当時は正委員長は男子と決まっていた。2年生に上がる時には残念ながら、委員長?副委員長や、活躍した連中の多くは、私の授業にも関係のない学級へ行ってしまったのだった。2年生になっても、女子たちは1学期中はよく新しい学級の情報をもたらしてくれていたのだが、いつしか縁が切れてしまい、今はどうしているかと懐想する。もう1人、文字がもっとうまく、文学的な才能が抜群で、翌年私の組で1学期の副委員長に当選する子もいた。ガリ切りを最も多くやってくれた。この子の両親も小学校の教員であったが、父親は少し前に病死されている。

 *正方形の箱の中に3段3列なら1?8、 4段4列なら1?15のプラスチック等の駒がバラバラに入っていて、1つの空きスペースを利用して、駒を次々と移動させ、数字の順番に並べ変えるゲーム。

 時間割編成 春休み中に何日も出勤したために、職員会議での発言を支持してくれた年長の数学科教員の時間割編成作業に興味を持ち、何日か手伝うことになった。これが元で、35年間の学校勤めの大半を、教務係の厄介極まる時間割編成係をすることになったのだった。但し、小学校の時間割編成は簡単だと思う。詳しくは分からないが、体育と音楽の時間の運動場とオルガンの使用割り当て位をすれば、後は各担任が自由に、思考学科は午前になどと決められるのではなかろうか。中学校では1学級に何人もの教員が入るので、各人を重複しないように振り分けなければならない。上述の配慮はとてもできない。土曜日は空けてくれなどと特別の希望を出さないひとの場合、なるべく、毎日平均的な時間数にして1日6時間連続などは避けたい。しかし、体育科や音楽科などを先に割り当て、次に持ち時間の多いひとから収めて行くと、後になるほど自由に収められなくなり、数字の並べ替えゲーム*と同じ原理で,ともかく、空いている箇所に押しこまざるを得なくなって、思いとは程遠いものになってしまうのが常だった。初めのほうで一旦は理想的に入ったひとの分も最終には、後からのひとの分を収めるために前後左右、別の曜日にまで移動され続けて最初とは全く違った形になってしまうのが常だった。希望と全く合わないで文句を言われることも時々あったが、では、あなたが変更しなさいと言うと、100%断念したものだった。学級数が多いほど難作業になる。教頭や保健係が応援で数時間だけ担当してくれた年はそのひとの空きスペースを利用して、次々と他のひとの駒を移動させられるので助かったが、そのような年は滅多になく、たいてい2週間の春休みの半分は潰れるのだった。特にコツが分からない最初の頃は、熱中して終電車に乗り遅れて保健室で寝たことと、始業式に間に合わず3?4日間、毎日々々翌日分の仮時間割を発表してしのいだことが1回ずつあったことを思い出す。

 糠(ぬか)袋 以前書いたが純朴な子の多い町のせいか、あるいは、卒業した先輩から私のことを良いように聞いていたのか、素直に私の指示に従ってくれる生徒が女子には多かった。誰から言い出したのか忘れたが、始めは箒で掃いていた床を雑巾がけし始め、更には、女の子たち銘々が家庭で糠袋を作って来て、粗悪な木材の荒れた床板を箒で掃除した後、それでこすってくれるようになった。小学校の1学級だけそうしていたのを引き継いだのだった。お陰で私の教室だけ、床がすべすべで艶が出た。生徒たちは全員が教室では靴を履かないように自治会で取り決めた。保護者懇談会の時に、真っ白な足袋の母親が下駄を脱いで入室されたとの記録を今回発見した。そのうちに隣の組だけ真似をした。遠足の時も、帰りの電車内ではゴミを出すなの一言で,夏みかんの皮をリュックの中でむいている子もいるいじらしさ。当時の1年生は本当に純真だった。純真だと言うと、驚いた顔をされる母親もおられた。家では違ったのか。

退職1年前の年は更に厄介な条件がついた。隔週に木曜日の6時間目だけを別の科目に入れ替えるのだ。それは全般に波及する難作業となる。 嫌がって誰も教務を希望しないから、お鉢が回って来てしまった。転勤して2年目で、1年目は楽をさせてもらったから嫌とは言えなかった。往復2時間の通勤時間が惜しくて1週間ほど家にこもりきりでやった。大きな額縁状の枠の中で必要数だけの組名と教科名を書いた木の駒を数字パズル同様に移動しまくるのだが、電車通勤だから大きな盤を家へ持ち帰れるわけがなく、模造紙全紙上に、縦に全職員名、横に全時間だったかの欄を作り、鉛筆と消しゴムとで書いては消し、書いては消しして進めた。初めの何年間かも盤がなかったからそうしていたのだった。教務主任が進行状況を心配して家まで見に来たことだった。見事成功させたので、翌年退職を申し出てももう1年教務をやってくれと慰留された。それを振り切って退職してからも春休みに手伝いに行ったが、この時は「船頭多くして舟山に上る」の感大で2日目からは出なかった。

 劇好演 3年生の送別会に劇をすることを決め,既に予行の時に、3年生に手伝ってもらって、廊下まで付けた教室を背景に造り、「腕時計」という喜劇をした。これといったヤマのない筋書だったのに1男子が主演して大成功を収めた。これに刺激されて、一旦は棄権していた隣の組が劇の練習を始めた。

 1年らしさ 9年後に再び1年生を持った時には感じなかったはずなのだが、この時の1年生は無邪気だったのか。授業時に賳枻工毪取な证筏啤%膝ぁⅴ膝ぁⅴ膝い葘gにうるさい。女子に悪戯する男子も少々いた。これらの矯正も最初の仕事だった。

同学年の国語科の担当は、小学校校長を退職された人格者が4学級を、残り1学級は家庭科担当者の応援だった。この年はもう一斉テストを始めていて、教員としては持ちクラスの成績が気になる処だが?漢字に力を入れていたせいで、総合点では全く引けは取らなかった。元校長には私より1歳下の子息—後に僚友—があり、時折は息子さんのことを愚痴りながら可愛がって下さった?一番いろいろと教えて下さった恩人である。全くの初心者である囲碁の相手も時にはして下さったし、人生についても硬軟ちょっぴりだが教えて下さった。3?4年後に中学校も退職された後、お宅へ伺って自費出版された貴重な回顧録を頂いた。それにも人生の指針がつまっていて、最近も読み返したことだった。

縁あって、を飲んで下さった方が
体験記をつけてくださいました。

ご本人了解のもと、ご紹介させていただきます。

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4/17 19:00すぎ

希望の命水が届く。

1リットルってすぐなくなりそう?っと思いました。

説明書によると、始めの5日間は通常の3倍の量を毎日摂取、とのこと。
1日あたり30ccを薄めて飲むので、今週は90ccか?。

早速、夕食時に30ccをミネラルウォーターで300ccに薄めてみた。(1回あたり30ccまでなので、今日は30ccで終わり)

ゴクリ。

う?む、ちと酸っぱくて鉄の味がしてかすかに苦い。。。海水のような香りがする。。

味のない飲み物で薄めるのは、ちょっと違うかも。

明日は、違う飲み方にチャレンジしよう??。


飲用開始時の体調。

眼精疲労、肩こり、髪のパサつき、疲れやすい(肉体、脳ミソ…笑)
松果体は下に延ばすイメージが苦手。
体重〇〇キロ、体脂肪率〇〇%
精神状態はゴキゲン

????
04/18 [16:33]

軽く汗をかくと、においがっ…
汗の染み込んだ柔道着のようなにおいがしてビックリ!Σ( ̄□ ̄;)
見事、ボディーソープの香りが消えました(笑)
デトックス効果がスゴいのかな?

回答=そうです、皮膚からも毒素が排出されるので、出切るまで
少し臭いはあるかもです....

それも、これも、農薬、化学物佟⑻砑游铯訾朐^だからね?ちと、辛抱して?

出切ったら、身体軽くなるよ!
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04/19 [11:37]
お通じに変化あり。
寝過ぎの割りに、体が軽い。
????
回答=お通じは、緩くなった感じですか?
キレート反応が出ると、腹痛のない下痢をすることもあります。


寝すぎの割に、身体が軽いって、疲れが抜けてくれてるって
ことにつながりません?
身体が軽いので、軽快に動けますよね?
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お通じは、ご名答(笑)
いい感じです(^^)

疲れについては、熟睡感がすごくて、爽快なんですよ。
体感的には、10年前の頃に少し似てるかな?
…しかし、こんなに体が侵食されてたのかと思うと、呆れちゃいますね(^_^;)
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04/22 [11:42]

体重はそんなに変わってないけど、最近フットワークが軽いわ??

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???と、こんな感じで体に変化がある方もいらっしゃいます。

疲れにくい体になる。と言うことを実感される方が多いです。

病気を予防するためにも必要なミネラル群ですし、アトピーや
アレルギーで困っている方の体俑纳皮摔猡胜辘蓼埂�br>
「」

 学級減 この学年は6学級に減少していた。前年までは12学級に増えていたが、優秀な生徒の多い地区を3百m西にできた新設校に譲ったためにである。前々稿のディーン氏はその学校の教頭に栄転した。私もこの13年後にはそこへ移るのだが。ついでに書いておくが、同校よりも更に直線距離では近いが、電車線路の向かい側にも新設された。栕〖恢肖趣肖趣いγ挨驇工工毪长趣摔胜辍�ldquo;平野”の名前を取り合うことになったが、私の学校長は、その名は譲ってより広く摂津の南という意味の“摂陽”と命名された。

 紙1枚 37度前後の微熱と体のだるいことは相変わらず続いていたが、生徒とドッジボールも時々した。時には卓球部の子と試合もした。卓球部の上級生には初め少し適わなかったが、傍で眺めている間に、彼等の待機の姿勢では、靴の踵が少し床から浮いていることに気づいた。それからは成績が少し向上した。以後?自学級の生徒には各種競技の試合の前には「紙1枚」と言い続けた。同様に、陸上部員の走りを見ていて?後ろ足で地面を強く蹴っていることに気づいた? 初めてそれを真似た時、危うく前のめりに転びかけたものだった。子供の間に気づいていれば、運動会でみじめな思いをしなくてすんだのにと思ったものだった。孫娘の運動会の折、未就園児と保護者のアベック競争に出て、3歳位だった弟を半ば吊り上げるようにして走り、ダントツの1位だったことが生涯スポーツでの1度だけの入賞経験だ。小学校の高学年の先生は文系らしく、俳句の指導などはよかったが、私の苦手な鉄棒や跳び箱など、一言の助言もなかったことが残念だ。         

 希望教科 当初、私は自学級については国?数?理?英担当を希望した。英語は弱いのだが、教えることで勉強するつもりだったし、自分が失敗した体験が、何の苦労もしなかった数学よりもかえって生きると考えた。指導法の本は1冊読んであった。そうした専門外の教科を希望した理由はもう1つある。3年の理科では、いろいろ関連した挿話も入れて、それでは笑いも取りながら進められたのだが、それでも、電気や機械など、どうしても女子の興味がつながりにくかったので、女子の得手な教科として特に国語を選んだのだ。前記のように、春休み中も秀才不合格の後始末のために出勤して分かったのだが、なんと自学級は国?理だけで、3年の英語科を多く充てられていた。大いに驚き、あっさり理科に換えてもらえた。出勤していなければどうなっていたことか。教務主任は、前に職員会議で味方して頂いた6歳上の数学科教員だった。正規の英語科教員が不足していて、結局社会科が専門の古参教員に回り、2年に上がった頃から授業への不満が大きくなるのだった。私は最終的に自学級の国?理と3年の理科3学級とで20時間。後年のことを思えば当時はそれ位でよかったのだ。前年度の3学期からずっと微熱が続いていてだるかった。その上大きな回虫*を2匹も養っていたことが分かった状態であるので、これは大へん有難かった。苦手の2年理科を3年目もまた避けて通れた。3学期から,自学級の数学が増えた。これは,50歳代の数学教諭が、精神的な病気とかで、以後何年間も休み続け、毎年夏休み中の1日、給料日だけ、元気そうな顔を見せて出勤簿に判を押して帰る。年に1度だけ出勤すれば給料がつながると聞いて腹が立った。私が7年目から数学専任になってからも彼は休み続け、そのために、数学科全員は毎年々々、彼の分の授業を1学級ずつ余分に負担さされ続けたのだった。私もその後9年間、この学校にいる間は病気と戦いながらの辛い勤務の中で負担さされたのだった。

 少人数学級! 男子23名、女子18名、計41名、こんなに少人数なのはこの1年限りであった。記録を読み返してみても、全ての生徒によく手が回っている。しかし、2の段の九々しか言えない子などが他学級より多くいて、授業の脚を引っ張られた。言葉遣いは今までの学年よりよく、学級裁判や、床磨きなど、小学校6学級の中の1学級の担任がよく躾けられていて、その影響が及んだのは有難かった。

 日記提出 教室へは生徒だけを連れて入った。翌年の始業式での訓話は次稿で記すように大成功だったと思うが、この年は、仲の良いまじめな学級にしよう位だったか。長い式の後だったから生徒も疲れていて落ちつかなかったせいもある。始業式までの1週間分の日記をノートに書いておくことを宿題にした。日記は、自分が商業学校に入学した時に1年間課されて、その後忙しくなるまで20年位続けた経験から命じたのだが、大方の生徒、特に男子にとっては一番嫌な部類の宿題だったようだ。始業式の日に提出したのは僅かだった。日記提出はその後もずっと、後々の生徒まで続け、提出しない者には罰掃除させ、保護者会の日に不提出回数の一覧表を貼り出したりまでしたが、男子はそれでも出さないか、出しても、おざなりに、何時に起きて何をした程度のことを2?3行しか書かない子も多かった。それでも、まじめに提出してくれる子とは個人的に語り合う助けになったのだった。漢字?仮名遣いの誤りも必ず正した。自分が1年間提出した時の担任は検印だけだった。一般男子と同じように、自分も毎日の決まり切ったことしか書いていなかったせいもあるか。行数は少しだけ多かったが。   

 奨励印 日記帳や各種提出物の優秀作に奨励印を押すことを思い着いた?図案集を参考にして、先ず、1.5cm四方位のカタツムリの絵の殻の所に「佳良」の文字を配し、次に?考えあぐねた末に直径2.5cm位の円の中に柳に飛びつく蛙を配して「精励」の文字を入れたものを描いた。これらを業者に木版にしてもらった。5月末に出来上がった。立派な出来だった。赤いスタンプインクで押した?成績の低い男子などが特に、これを押して欲しさに漢字をたくさん書いてきたりした。後々の学年までずっと使わせてもらったが上学年になると効果は薄れた。

 担任紹介 校長挨拶がすんで担任紹介となり、各組の前に立った。くたびれた緑色の学生服を着た短躯の若造を見て、私の組の保護者が一番がっかりするだろうとその時は覚悟していた。最近の同級会でも、この時の服装のことを覚えていた白髪の紳士がいた。10年以上も前から同級会の度に、仲居さんは彼を担任と間違えるのだった。私は大分禿頭なのだが?彼の貫禄にははるかに及ばない。脱線! この年位から、町では国防色がめっきり減ったと記録している。 

 バラック校舎 新1年生の教室は6学級まとまって校庭の片隅にあった。外観は一面焦げ茶色の粗末な木造バラック校舎だった。中廊下を挟んで2組ずつ向かい合っていた。後に新設高校を仮住まいさせたり、ベビーブームの時代が来たりしても何とかしのげたのに、この時、なぜバラック校舎だったのかがどうしても思い出せない。ここで書いておくが、後々まで教室や講堂には私の知っている限り、暖房はなかった。もちろん冷房もない。それ処か、最初の学校では教室に電灯もないから、夏のにわか雨の時など、空が暗くなり、黒板の字が読めなくなり、10分位は授業を中断せざるを得なかったことも時おりはあった。今と違って?窓の立付けが悪く、冬は隙間風がビュービュー吹き込む日もあった。生徒が新聞紙を持参して細く重ね折りしたものを隙間に挟んで風を防いだものだった。職員室には石炭を焚く効率の悪いストーブが室の真中に1台だけあって、真前1周のひと以外は?前列のひとの間からさし出す掌しか温まらなかったものだ。遅く教室から帰って来ると,温まらないうちにまた、次の授業に飛び出さなければならなかったのだった。

 男女隣席 当初、国語科の授業には相当な意欲をもっていた。先ず実力テストを行なって分野別の学力を知り、それによって生徒の座席を学力別にグループ化した。教育雑誌の記事を実行しようとしたのだが、私1人の能力ではとても対応しきれず、2週間位で普通授業に戻した?座席はその後ずっと、嫌がる生徒の声を無視して男女の机を並べ続けた。他の先生方の授業時には雑談が多かった。雑談すればなぐると言ってやっと静めたこともあった状態だったのでこの方法は幾分成功したと思う。他学級でも真似する所が出てきたので、これは後にはやり易くなった。3学期に少し入って初めて仲良し同士机を並べさせた。


 結核との診断  4月、時間割編成を手伝っていた途中から37℃余に発熱したりしていた。幼時に40度位の発熱が常時だったせいか、熱には今でも余りこたえない。少しだるい位で頑張れる。8月18日の登校日、37,5℃に発熱していた。以後の休暇中は大方寝て過ごすことになったのだが前日から宿直で学校にいた。その時校医が来たので、胃腸の悪いことを訴えた結果、この日午後、校医宅に赴いた。かかりつけの医師はたいしたことはないとしていたから今で言うセカンドオピニオン(2次打診)のつもりだった。レントゲンを撮って、うすくしか写っていないフィルムだが、またも左肺尖部の軽い結核と断定された。当時、結核は国民病*とまで言われていた。そして、当時の新技術の人工気胸術*2を毎週1回施すことになった。

詳しい記録が出てきたので、大修正しました。取捨に迷って、記録   のない時より却って随分手間取りました。

 抵抗 奉職3年目に入った。前年度終業式の日に、新2年の担任を持つよう言われた。校内でも有名な荒れた学級を持てと。その学年は1年から編成替えなしの予定だった。前年の担任は私と同年齢の体育科のしっかりした女教師だったのだが。前年の実績を認められたのは嬉しいが私は抵抗した。当初に希望を出した通りに、1度1年生から順に持上がらせて欲しいと。前々稿に記した秀才不合格の対応のために出勤し、傍ら抵抗を続けた。そして、ついに3日目に希望が適った。この学年は2年に上がる時に編成替えはしたものの、私にとって、唯一の3ヶ年連続担当となるのだった。件の悪評高い学級の噂をその後全く聞かなかったことを今思い出して、あの時、あの学年は急遽、組替えすることに切り替えて凌いだに違いないと確信するに至った。この年から2年に上がる時に編成替えすることが定着したに違いない。

 *統計グラフから読取ると、この年の1年生の平均身長は男女各136、137cm位で、一昨年の統計 で見ると男女とも今の小学校4,5年生の中間に位置し、今の1年生は男女共152?前後である。

              病苦でヒヤヒヤの気胸施術も

 授業観察 2学期の授業が始まって間もなくのある日、教室の窓は全開だった。と、校医がやってきて無礼(?)にも窓枠に腰を下ろして30分ほども授業を観察していた。気胸を2?3回受けた後のことだ。これで授業時間を減らしてもらえるかなと期待したが、何の音沙汰もなかった。それ処か、最初に記したように、むしろ、3学期には増えたのだった。秋以降は小康を保ったのだったか。                                       

 *2胸膜腔に空気を注入することで人工的に肺を萎縮させる療法。その後、危険が伴うため衰退した。一時期だけのものだった。

10回目を受けた後の記録を紛失しているのだが、その次位の処で突然気胸は中止された。病気が治ったとの宣言はなしに何の理由も示さずにだ。施術の危険性が明らかになってきたためだろうと思う。ともかくほっとした。その後も体調不良は常のことだが、ともかくあえぎながらも、毎年有給休暇20日分の半分位は残せたことをここに記しておく。下痢気味の日も多くて?遠足の度に道中のことを心配したが幸い失敗はなかった。奈良県へ転居してからの1時間通勤になって、途中下車して遅刻したことは1回あった。中年以降はおおむね元気になったのだが。但し、この年の夏休みと、翌々年、3年生担任になった年の夏休み—この年は大失敗をして—共に8月30日まで大方寝て過ごすことになったのだが、詳しいことは省く。

 風雨の入学式 4月1日、朝から激しい風雨の日だった。入学式は講堂で保護者も共に行われた。組分けは小学校在学中に担任に引率してもらって来校させ、知能検査をしてその値でしてあった?巻紙に1人々々の氏名を毛筆で大きく縦書きした学級名簿を廊下のあちこちの壁に貼り出してあった。自分の名前のある張り紙の下へ生徒を集め、身長の小さい順に並べて講堂へ引率し、その順に着席させた。まだ数年後までの1年生は実に小さかった*が、中でも私の組の女子の先頭だけ特に低かった。心臓に欠陥のある子で、明るく良い子だったが卒業後半年で死亡した,LV M40145 小號 PALERMO 手提包 LV包包價格、目錄、型錄、新款 官方網站旗艦店。彼女の卒業に関してはまた記載する。

 悲壮!水泳大会 9月8日、毎年恒例の水泳大会は各学年ごとのリレーがメインだった。男女別一組各5人のチームだったか。女子のメンバーを選ぶのに苦労した。戦後まだ5年、たいていの子は学校のプールで1ヶ月余り水泳を習っただけなのだから20mを完泳できないのだ。4人まではよかったが5人目は嫌がるのをかまわず、皆の推薦でとうとう、組でも相当小さいH子に押し付けてしまった。さて、本番。我が組のコースは真ん中だった。彼女の出番も真ん中位だったろうか。3クラス一応せりあってH子ら3人はほぼ同時に跳び込んだ。処が、コース中央付近まで来ると、期せずして両側のコースの子はプールサイドにしがみついてしまった。と、大変! H子は沈んでしまった。ハッとする間もなく、彼女は底を蹴って顔を水面上に出し、息を吸ってまた沈み、底を蹴ってまた顔を出す。数回この繰り返しで何とかゴール。後続の2人は何とか泳ぎ切って、我が組予選1位! 決勝は上位クラスの失格があって2位! 男子は優勝! 

 学級新聞?苦行の発端 当時は学校新聞や学級新聞の制作が世間一般に盛んだったようだ。私も見よう見まねで学級新聞を作った。入学式の日の天候にちなんで「風雨」と題した?昔も今も短文が苦手なので、一般紙の社説欄の所に収めたい保護者への挨拶や所信は裏面にも及んだ。学級費の使途報告欄を設けて奨励印やドッジボール代などに充てたことを報告した。もちろん、裏面のその他は生徒の文芸作品だった。この学級新聞を見て、新聞部長のN君が教えてくれた紙面の構成ルールに興味をもったことが、8年間苦しむことになる端緒となってしまったのだ。このことは後の記事とする。 

他にソフトボールで女子があっさり負けたことは記録しているが、以後の部分は紛失して分らない? 秋の運動会の綱引きでは、毎年、常に指示しておいて、列外の先頭で手を振る私の身振りに合わせて力を揃え、背をのけぞらせて綱を引くことがうまく行き、優勝させることが多かったが、この最初の年から男女ともうまくいったのではなかろうか。足下の砂も取り払わせたことだった。この推測は次項の賞状の枚数が多かったことによる。

 *かつて日本では結核は国民病?亡国病とまで言われるほど猛威をふるった。この記事の翌年昭和26年3月)結核予防法が制定され、抗生物伽蛴盲い炕Н煼à纹占挨胜嗓摔瑜盲萍pをみた。しかし近年再びその活動性が増してきており、依然として結核は我が国での最大の感染病であるという。

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